第3章 / 第1節 前期作品『素晴らしい世界』

浅野いにお前期の作品といえば、2002年-2004年に掲載された短編をまとめた、『素晴らしい世界』。この時期の浅野いにお漫画には「世界の終わり」というキーワードがリフレインされる。

これは使うシチュエーションによって意味が違うし、もちろんその時の俺の歳にもよるんだけど、「世界の終わり」で人類が絶滅するとかそういう話じゃなくて。今の感じは終わらせてリセットしてやり直してみようか、という個人レベルの話ですね。たぶん俺らの同世代って、最初からみんな諦めてる感じがあると思うんです。それをマンガ的に、諦めてるけどそこから先に進む、「世界の終わり」の向こうへ行こうよみたいなちょっといい話を『素晴らしい世界』では作ってた(※36)

ここから、「世界の終わり」と感じる絶望の先に、希望があるということを伝えようとしていたことが分かる。本来であれば、絶望と希望は「絶望/希望」という二項対立の関係であり、両極端にあるものである。しかし、浅野いにおは絶望と希望は反対のものではなく、「絶望=希望」、つまり絶望と希望は紙一重であり、絶望の先にこそ希望が宿ると考えていることが読み取れる。

『素晴らしい世界』の作中の登場人物たちは、様々な営為を行うが、ことごとく失敗に終わる。しかし、その先に登場人物たちは希望を見つけていく。それを象徴するのが、17th program あおぞらの話である。主人公の堀田は会社を辞め、新しい仕事が1年以上見つからない「自分はきっとやればできる」と考えている男。結婚を約束した恋人と喧嘩をし、学生時代からの友人に起業を持ちかけても見放された上、「おまえはまだ人生で何もしちゃいねぇ」とまで言われてしまう。そんな絶望と失意の中、道に飛び出した子どもを避けるために急ハンドルを切ったトラックに轢かれてしまう。そんな苦難続きの堀田の前に表れた天使と死神(浅野いにお漫画において、非現実的要素が入ることは珍しい)によって、自分のいなくなった世界を見る。そこには、死を悲しむ友人と、涙する恋人の姿があった。それを見た堀田は後悔をし、絶望に染まっていた自分の生きてきた世界に後悔と希望を見出す。そして、天使の計らいにより、堀田は再び地上に戻ることが出来る。そんな堀田へ贈った天使のセリフにこそ、浅野いにおの絶望と希望に対する考え方が見える。

あなたやみんなが思っているように、この世の中は言うほどに素敵なものではないかもしれない。
でも、見慣れた景色も空から見るとまるで違って見えるように。
雨が降っても雲の上には青空が広がってるように。

あなたがどう捉えるかで世界の見え方も変わってくると思いませんか?
『ああ、なんて素晴らしい世界だ』
嘘でもいいからそう思ってみれば、昨日よりちょっとは楽しい気分。かも、ですよね。

つまり、「絶望」と感じることがあっても、それは違う角度から見ると「希望」なのかもしれないという考え方。つまり絶望と希望は両極にあるわけではなく、裏表であり、紙一重であるということなのだ。そして、物語の最後に堀田が恋人に電話をかけるシーンでこの話は幕を閉じる。その先は描かれていないが、浅野いにおのメッセージを受け取った読者には想像することが容易だろう。それは、恋人や友人に見放された絶望を、自分が変わるきっかけとして受け止め、一歩踏み出そうという希望へと捉え直し、前を向いて歩いていく姿である。そのことを、評論家の阿部嘉昭も述べている。

浅野作品がリアルと呼ばれ、称賛を受けるいまひとつの理由は前章に記したように、浅野が絶望/希望をたえず独特の枠組のなかで主張する点から導かれる。むろん浅野が道学者めいて、「この絶望の世界にあっても、常に希望をもて」と、読者に平板な説教を垂れるわけではない。それではJポップの売れ筋になってしまう。彼は常に、絶望/希望の弁別線がもともとすごく微妙だと考えているのではないか。だから彼は、二つの弁別境界の微妙さをしめしたのちに、「微妙だからこそ、可能ならばむしろ希望に赴け」と読者にしずかに提案する傾向がある。あるいは、昨日と今日が何も変わらないようにみえても、そこには触知できない「差異」が必ずあり、その差異に向けてこそむしろ希望を見出せといっているはずだ(※37)

浅野いにおは、『素晴らしい世界』において、終わりは始まりであり、絶望は希望であること。つまり、「捉え方次第で何事も変わっていく」ということを伝えている。

脚注

※36 吉田大助(2006)「徹底特集 浅野いにお」『Quick Japan』vol.69:p116
※37 阿部嘉昭(2008)『マンガは動く』泉書房 p241

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