第2章 / 第2節 / 第1項 抽象化された主人公

そんな、浅野いにお漫画の中で最大のヒット作となった『おやすみプンプン』は、今までの作品と大きく異なる点がある。それは、背景も他の登場人物も統一された緻密な線で描かれるなかで、プンプンとプンプン一家だけが落書きのように描かれている点だ(下記資料4 図1参照)。なぜ、このようになったのか。その理由と狙いについて、浅野いにおのインタビューにて、本人の口から語られていた。

▼ 資料4 図1. プンプンの作画



そもそもどういうものをマンガっていうんだろう?とか、そういうことを考えるようになったんですよ。どれだけリアルな話を描いても、人が考えたフィクションでしかない。どれだけ描いても、結局、そこに出てくる登場人物は、みんな“絵”なんだよな、って。(中略)やっぱり物語の主人公は、読んでいる読者自身であってほしいと思うんです。どれだけいい話でも、絵柄が気に食わなくて読めないものがあったりして。それじゃあ、もう主人公は何でもいいんじゃないかな?って。顔を固定したくない。その結果として、このキャラクターになったんです(※26)

今までの浅野いにお漫画の登場人物たちは常にリアリティを求められてきた。それはつまり、漫画的な表現である、過度な漫符や、デフォルメされたビジュアル、オノマトペは封じられ、表情とセリフ(内面/外面)によって登場人物の心情が描かれてきた。綿密に書き込まれたそれらの要素から、登場人物たちは固有の存在として確立されてきた。そんな、浅野いにおが行き着いた先は、「絵」による表現の限界であった。「絵柄が気に食わなくて読めない」と、読者に感じられてしまえば、たちまち読者はその登場人物に思うように感情移入が出来なくなってしまうことを感じ取っていた。だからこそ、『おやすみプンプン』では、一見感情移入が出来そうにない「記号的な絵」として、落書きのような登場人物として、プンプンは描かれることになった。顔を固定しない、記号的な絵となったことで、プンプンは漫画的記号を使うことを許された。好きな女の子に同意を求められれば、「コクコク」と頷き、緊張で身震いし、好きな女の子に好きと言われれば、目玉が飛び出すぐらい驚き、嬉しさのあまりぼーっとしてしまう。これらのことから、読者はプンプンを記号的で漫画的な登場人物として捉え、他の登場人物や物語世界とのギャップによって混乱に陥る。

また、作中でプンプンの発話が他の登場人物と同様に描かれることは、一切無い。それ以前に会話をすることがほとんどない。プンプンの発話は、常にモノローグであり、それすらも「語り手」を仲介し、読者に届けられる。ここで、プンプンと同じように記号的に描かれている、プンプンの叔父との会話の場面を分析していく(下記資料4 図2参照)。場面の1コマ目、赤の破線に囲まれた二重線の角張った吹き出しは、テレビから流れてくる音のため、他の会話とは区別して描かれている。黄色の破線に囲まれた丸い吹き出しは、叔父から発話されている。以後、全ての丸い吹き出しは叔父からの発話であることが確認出来る。それに対し、プンプンの発話は青の破線に囲まれた黒背景に白文字のモノローグ、オレンジの破線に囲まれた四角い吹き出しによって表現されている。前者において、プンプンの発話は括弧で括られた後に、「と、プンプンは聞きました」と記述されていることから、読者に届くこの声は、プンプンの口から発せられた声ではなく、語り手によって発せられた声だということが分かる。後者では、語り手が明確には登場していないが、同じくプンプンの発話に括弧が付いていることから、語り手が介入していることが読み取れる。これにより、本作を読み進める読者にとって、プンプンの声は失われており、常に語り手の声が再生されていくことになる。

▼ 資料4 図2. プンプンの発話の描かれ方

浅野いにおは、物語世界の中にプンプンのビジュアルを固定しないだけでなく、声をも固定しなかった。それはつまり、プンプンが物語世界に存在することの否定であり、プンプンの主体性/固有性の消失である。これによって、プンプンという登場人物単体では、物語世界への存在を想像することが出来ず、読者が感情移入をすることが困難になっている。

脚注

※26 宮昌太朗(2007)「僕らのもがくこの世界を見つめる 浅野いにおは何をはじめるつもりなのか」
   『ダ・ヴィンチ』No.161:p232

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